かけ続ける意味があるのかと問うた日
教育費をかけ続ける意味はあるのか。
そう考えた時期がありました。
合格という結果に届かなければ、
費用の負担だけが残るのではないか。
そんな不安が、
判断の輪郭に触れてきていました。
科目ごとに残っていたもの
振り返ると、
費用に比例した成果とは別のものが残っていました。
国語、算数、理科、社会。
それぞれの科目で、
「考える」という訓練が積み上がっていました。
答えを出すだけではなく、
どう考えるか。
どこで迷うか。
思考の跡が残り、
長男自身が自分の思考のクセを理解して
修正することができるようになっていったと思います。
机に向かう習慣
もう一つ残ったものがあります。
机に向かう習慣です。
予習、復習。
それらがなければ、
一定の時間、机に向かう習慣は
簡単にはつかなかったのではないか、
という感覚があります。
「役に立たない」という言葉
「中学受験で学ぶ内容は、将来役に立たない」
そうした意見を耳にすることもありました。
確かに、
そのまま使う場面は多くないのかもしれません。
我が家の場合、
志望校を一本に絞り、
もし届かなければ公立中学進学を考えていました。
その前提で考えたとき、
学んだ内容を無意味には感じませんでした。
理科や社会は、
高校受験に向けた土台知識として
確実に積み上がっていました。
算数の計算力。
国語の読解力。
形は変わっても、
「無駄になる」という感覚はいつしか薄れていました。
撤退を考えた時期
小5の終わり。
集団塾をやめた頃、
中学受験撤退も視野に入りました。
成績は伸びず、
費用はかかる。
費用対効果という言葉が、
現実味を帯びていました。
それでも残っていた実感
撤退ではなくいったん学び方を変えてみる、
という方向で個別指導に移りました。
それからの様子も振り返ると、
考える力。
机に向かう習慣。
学習への向き合い方。
合格とは別の形で、
残っているものが見えるように感じます。
まとめに代えて
教育費を理由に、
諦める判断もあり得たと思います。
現実的な迷いでした。
それでも、
中学受験を通して残ったものを思い返すと、
費用だけでは測れない時間でもありました。
合格という結果とは別に、
積み上がっていたものがありました。
その実感が、
続ける判断を支えていたのだと思います。
次回は、
教育費の話を家庭の中に戻します。
夫婦の間で、
どこまで共有できていたのか。
どこでズレていたのか。
当時の会話を思い返します。

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