予習は「理解」ではなく「前提」になっていた
宿題が終わらない日々が続く中で、
もう一つ、算数を苦しくしていたものがありました。
それは、
「予習」という仕組みです。
当時は、
宿題が大変なのは量の問題だと思っていました。
時間が足りないから回らない。
そう考えていたのです。
けれど、
いま振り返ると、
その前段階にあった
「予習のあり方」そのものが、
算数の理解を難しくしていたように思います。
算数の授業は、
基本的に
予習ありきで進んでいきます。
算数の授業が終わると
子どもに対して
次回の授業で取り上げるテキストの範囲が示されます。
親も見ることができる専用サイトにも翌日には同様の内容が示されます。
そこで親も次回授業分の予習範囲を把握する。
予習の動画は
塾の先生がホワイトボードを使って例題を解説するというものです。
1本はおおむね10分くらいでしょうか。
解説を見る→例題を解く→基本問題を解く
というのが予習の全容です。
これを家ですべてやってくる。
基本的には週に2回はこのフェーズがやってきます。
基本問題を解き終えるまでに
だいたい1時間くらいかかり、その後、丸つけをします。
予習の段階で、
「ある程度分かっている」
状態を想定して、
授業が進んでいく。
予習が
「理解を深めるためのもの」
というより、
「授業についていくための前提条件」
であるという印象でした。
動画を見ても、よく分からないまま終わる
たしかにテキストで解き方を読むよりは
動画を見た方が理解は進むと感じました。
ただ、
内容によっては一度で理解できないものも多い。
何度も動画を止めて戻って再生し直す長男の姿がありました。
動画は流れているけれど、
ペンを持つ手は止まっているということも。
動画を見終えたあとに残るのは、
「分かったような気もする」
という、あいまいな感覚でした。
内容を完全に理解できた、
という実感は、
正直あまりありませんでした。
分からないまま受ける授業が続いていった
予習で理解しきれないまま、
授業を受ける。
授業でも、
もちろん解説はあったそうです。
授業中にわからなければ手を挙げることもOKです。
授業後には質問時間も設けられていました。
何人かは質問するために並ぶ。
でも、分からない部分があっても、
授業で立ち止まる余地はあまりありません。
家に帰ってきた後、
「わかった?」
と聞くと
「うーん」
というあいまいな答えが返ってくる。
こうして、
「分からない状態で授業を受ける」
ということが、
少しずつ当たり前になっていきました。
予習と復習が、つながらなかった感覚
本来であれば、
予習で触れ、
授業で理解し、
復習で定着させる。
そうした流れを
思い描いていたはずでした。
けれど実際には、
授業を終えると「次」を意識しなければなりません。
予習以外の宿題は復習が当然中心になりますが、
解けない問題をじっくり時間をかけて考える余裕がない。
算数は、
「つながって理解する教科」のはずなのに、
細切れのまま
進んでいっているように感じられました。
まとめに代えて
予習という仕組みそのものが、
悪かったわけではないと思います。
ただ、
理解が追いついていない状態での予習は、
算数では
特に負担になりやすかった。
分からないまま動画を見て、
分からないまま授業を受け、
分からないまま宿題に取り組む。
その流れが、
算数の苦しさを
固定化していったように思います。
この時点では、
まだ
「やり方を変えよう」
という判断には至っていません。
ただ、
「このままでは、どこかで行き詰まる」
そんな感覚だけは、
はっきりと残っていました。
次の記事では、
こうした状況の中で、
親が家で教えても
なかなか追いつかなかった理由について、
振り返ります。

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